『オール・ユー・ニード・イズ・キル』

公開から約二週間。バルト9の夜中12時半からの回で観て来ました。かなりの人気だと思います。私が新宿で寝泊まりしているマンション至近のコンビニでは原作マンガがここぞとばかりに売られていますし、バルト9のロビーでも長らく特設モニターでトレーラーが流されています。それでも、既にバルト9では、2D5回、3D2回の上映回数になっています。いつもの如く、私は2D派ですので、3Dが早々に数が減って、2Dの上映時間の選択肢が相対的に多くなっていくのを歓迎しています。

観客はほとんど男性で、合計10人少々と言った感じです。年齢層は私前後が平均値かもしれません。

面白い映画です。かなり楽しめました。ズーンと何か残るものもありませんし、何かの人生的教訓をしみじみ考えさせられる訳でもありません。しかし、逆に、典型的なハリウッド的アクション駄々漏れ映画でもありません。

ここ数カ月の間、バルト9に来るたびに特設モニターのトレーラーを観ていましたので、話の大筋はまあまあわかっています。それが、私が好きな女優であるアンディ・マクダウェル主演のグラウンドホッグ・デイ(日本語タイトルはよく意味が分からない『恋はデジャ・ブ』)と同じ設定であることも知っています。あちらでは、名コメディアン、ビル・マーレイが田舎町の一日に捉えられてしまったウェザーマンを演じています。同じ一日を繰り返し、どんどん経験値が上がって、この街のこの日に限定的な全知的立場に至ります。これのSFアクション版がこの作品と知っていましたので、その面白さを期待して観ることにしたのが第一動機です。十分期待に応える映画だと思います。

なぜか分からずループ状態が始まり、一日が終わると朝にリセットされると言う、グラウンドホッグ・デイに比して、この作品では、主人公が死ななければリセットが発動しません。そして、なぜそういう状態になったかと、どうすればこの状態が終わるかということは一応、中盤で明かされますのですっきりします。その意味では、観ていて分かったのですが、この能力は、ジョジョ・シリーズ第四部に登場するキラー・クイーンというスタンドの「バイツァ・ダスト」と言う能力のシンプル版です。大分、グラウンドホッグ・デイのものよりも、応用範囲の広い状態と考えられます。

観ていて最も楽しいのは、やはり、同じ一日を何度も繰り返しているが故の全知感の発露です。次に起こることが何であるのかすべて分かっている訳ですし、分からないことが出ても、一旦失敗を経験すれば、次回からはその知識が組み込まれ、より完璧な全知に近づきます。周囲の人間の次の台詞を言い当て、ポケットの中身を言い当て、コーヒーにいくつ砂糖を入れるかまで全部知っています。こんな店員が居たら、とんでもないホスピタリティが実現するよなと、接客の究極の形を想像してしまいました。

先述のジョジョ・シリ―ズの第二部に登場する若き日のジョセフ・ジョースターは、相手を観察し、相手の行動を読み、相手の次の台詞を言い当て、自分のキメ台詞にすると言う、或る種メタ・セリフを得意としていました。そのような場面が、これでもかという風に、執拗に登場しますが、それがかなりコミカルな所もあり、楽しめるのです。

しかし、リセットはゲームの頭に常に戻ってしまう形になっていて、リセットがかかると、初めからやり直して、既にクリアが普通にできる状態になった道程も全部踏み越えてこなくてはなりません。同じことを同じ相手に何度となく説明し、説得しなくてはならない主人公の焦燥感やウンザリ感も、トム・クルーズの繊細な演技でとてもいい感じに表現されているように思います。私は、ここ10年以上、『エイジ・オヴ・エンパイア』というゲームを同じ設定で繰り返していますが、地形も展開もリスタートする毎に変わるので、このような感覚を味わうことがありません。所謂、一般のゲームのプレーヤーだったら、この映画に共感できて楽しいのか、それとも、映画でまで、このウンザリ感を思い出したくないと言うことになるのか、少々関心が湧きます。

実は、このループ能力を説明してくれる人物は、以前、その能力が一時的にあり、ヴェルダンと言う戦場で劇的な大勝利を記録した女性です。エミリー・ブラント演じる彼女が使えない兵士であるトム・クルーズにその能力を自覚させ、戦場で優秀な戦力とするように、(彼女にとっては)毎日初めて会うトム・クルーズをその日限りの超絶スーパー兵士に鍛え上げて行くのです。

彼女の当初の目的は、彼の助けを得て、エイリアンに占領された土地に上陸する作戦を成功させることでした。そのために、彼女は彼と作戦行動を共にしていますが、途中から、トム・クルーズがどんどん全知感を際立たせるのに対して、彼女の方が毎日改めて習う戦場の複雑な“クリア”方法についていけなくなり、足手まといになっていきます。

その辺で、トム・クルーズは彼女に対して恋愛感情が湧いてきていますが、恋愛感情が湧けば湧くほど、毎日彼女の無残な死にざまを目撃する結果になるのでした。この辺の設定は、なかなか心の琴線に触れます。だったら、もう彼女を連れて行くのを止めればよいのにと思っていたら、本当にそのような展開になっていきました。(その後、もともと彼女やそのサポートをする学者の説の上にさらに敵が罠を張っていることが分かり、参謀役として彼女が復帰します。)

『ハイランダー』などのように自分が不死になり、愛する女性がどんどん年老いて死んでいくのを見なくてはならないのも、かなり辛いだろうと、初めて観た若く多感な頃に、暗澹とした気分になった覚えがあります。しかし、この作品の設定も、ひどく残酷だと思われます。途中で主人公はループ能力を失います。それは、もうあと一度しか彼女の死を最悪でも観ればよいだけということを保証しますが、一度死んでしまえば、二度とリセットはできない、まさに必死の状態に陥ったと言うことでした。グラウンドホッグ・デイでは、絶対に登場し得ない、うまい展開だと唸らせられました。

こんな細かな機微も交えた展開を、この作品はかなりスピーディーに進めて見せます。飽きさせません。エイリアンも分かりにくいままですし、敢えて妙な解説がたくさん入られていない今風SFです。(さすがに、オメガだのアルファだののエイリアンの種別とループの仕組みぐらいは最低限の説明をしてくれます…)

ただ、この結果、エンディングが最大の謎として残りました。シアターを去る他の何人もの観客もそう言っていました。まあ、タイム・トラベルモノにはそれぐらい、たとえば劇中の人物さえも、理屈がわからないままになっている世界という結果があってもいいのかも…と好意的に解釈できるほど、他の要素が楽しませてくれています。パンフにもこの辺の謎解きがありませんでした。日本人の手による原作と言うところで、贔屓目になってしまっている気もしないではありませんが、前述のようなストーリー設定の出来の良さは、最近で言うと『ルーパー』以来かもしれません。

後からパンフを読んで分かりましたが、今回の主役級のエミリー・ブラントは『ルーパー』に主役一歩手前級の存在感で登場していました。この女優は、他にどこかで見たことがあるなと調べてみたら、DVDで観た『砂漠でサーモン・フィッシング』もそう言えばという印象ですが、極めつけはやはり『サンシャイン・クリーニング』のおかしな姉妹の片割です。(因みにもう一人の方は、タヌキ顔がかわいいエイミー・アダムズです。)

劇中、主人公は時間ループをめぐる能力を、アルファと呼ばれるエイリアンの末期の血液を大量に浴びることで身につけたことになっています。以前のエミリー・ブラントもそのようにして身につけました。そして彼女がリセットを繰り返して戦場を知り尽くしている間に、アルファはそのたびに蘇っていることになりますが、アルファの方には時間ループの能力が失われたままという設定です。つまり、時間ループをできる者は、その時空間に一体しかいられないと言うことです。

まだ、頼りない兵士である頃のトム・クルーズが、戦闘能力の高いエミリー・ブラントに、何か輸血などの方法で、能力を移せないかと言い出す場面があります。非常に合理的で手っ取り早い案です。すると、彼女は「ありとあらゆる方法を試したが、無理だ」と応えます。トム・クルーズが「本当に全部の可能性をつぶしたのか」と念を押すと、「例えば、セックスとかのことを言っているか」と聞いた上で、能力の転移は無理との結論を強調します。

ただ、彼女が能力を持っていたときに、彼女より前に、時間ループ能力を持っていた存在が居たかについては語られてはいません。しかし、能力転移の媒介は相応の量の体液であることは間違いがない訳ですから、女性の能力者から男性への転移がセックスで成功するとは考えにくいように思えます。つまり、彼女のケースにおけるセックスの選択肢の否定が、そのままトム・クルーズ側からの能力の転移をセックスでできないことの根拠にはならないと思われます。トム・クルーズから大量の精液を受け容れて能力転移ができるか否かを彼女が、以前に試して知ることがあったとは思えないのです。

どうせ、後に恋愛感情が湧く二人ですので、セックスで能力転移する、ないしはそれを試す展開があってもよかったのではないかと思いますし、そこから、なにか、カプセル化した血液剤のようなものを持って、それを互いに渡し合えると言った設定になって、フリップ・フロップ状態で話が展開するのもアリではなかったかとも思えます。日本の原作者は続編の著作を始めているとパンフに書かれていますので、今後の展開に一応の期待が持てます。

バルト9の上映スケジュールを見て、英題が、Edge of Tomorrow であることに気づきました。日本語の原作のタイトルも英語なのに、そのまま採用されなかったのは、日本人の残念な英語力ということなのでしょうか。

kill には名詞の意味もあると辞書には書かれていますが、殺害という行為の意味もあるものの、どちらかというと、殺害したもののこと指す感じのようです。殺害行為を指す意味においても、特定の者を殺すとか、特定の獲物の倒すこととか、特定の戦艦や戦闘機、戦車などを戦闘不能に破壊することなどをさしている語感です。映画の kill は出てくる敵を無差別に倒すという感じなので、アニヒレーションとかそういうニュアンスが近いのかとは思います。

All you need is love とは、やはり、単純な意味の置換にならないと言うことなんだろうなと、推量します。

いずれにせよ、原作のコミックを読んでみたくはなりました。『バクマン』の作画者によって、エミリー・ブラントの役回りもかなり萌えキャラ風なルックスであるようです。そして、勿論、DVDは買いです。